私はiPhoneのメモ帳をメモ兼Todoリストとして活用している。
そのTodoの中にこんなものがあった、“ブログで私の思っていることを書く"と
「思っていることを書きたい」とこのブログの記事を執筆する際に毎回思っているが、
『思っていることを書く』ということはなかなか難しい。
実際、ブログを書くという行為をしようとした時にもうさっき思ってたことを鮮明に思い出すことができない、
記憶の鮮度は落ちるのがとても早い。数秒、いや数ミリ秒で、その一瞬にあった脳内の思考はフェードアウトしていく。
それゆえ、ブログには自分の思っている全てを書くことができない。
そもそも、文字というメディアで頭の中にある全てを書き出すというのは不可能である。
このことについては筆者の別ブログでも取り上げたことがある。
『文章』と『話す』と『心の声』どれが自分の本心に近いかな? : バニラスカイ
『思っていることを書く』
ということが難しい理由として二つ目に挙げられるのが、自分の思っていることを全て曝け出すというのはなかなか度胸のいる行為であるということだ、
人間の思考は過去の記憶の上に乗っかっているようなもので、
思考の一つ一つは過去の経験と密接に結びついている。
そのため、思考を文字化する(思っていることを書く)という行為は自分の過去を少なからず曝け出す必要が出てくる。
私自身はプライベートな生活を曝すことは好きではない。それは何故か。
それは現在と過去の自分の生活や考え方が誇れるものではないと感じているからであろう。
要するに恥という感情が生まれるのである。
ブログに文章を書くという行為は仮にも、世界中から自分の書いた文章へのアクセス可能性を飛躍的に向上させる。
自分の恥を友人に話す時とは規模が異なる。
そして
『思っていることを書く』ということが難しい理由の三つ目には
「面倒くさい」という感情が生まれることが挙げられるだろう。
思っていることを文章に書き出す行為は労力を要する。
先ほど考えていた事柄を思い出す、その行為だけで脳に負荷はかかる、
さらにその概念を文字に変換し、ブログというメディアの読者に分かりやすいように説明しなければならない。
そして単純に文字を打ち込むという、肉体的労力も必要になることが多いだろう。
これが「面倒くさい」。
友人に自分の思っていることを話す際、友人は自分のコンテクストをある程度知っていることが多い。それゆえ、自分の思っていることを話すのは比較的容易だ。
例えば、
『私は鈴木さんのような雰囲気に憧れているんだ』
ということを友人に話すときと、ブログに書くときを比較してみる。
友人と話す場合、“鈴木さん”という概念を共有しているため“雰囲気”という言葉で省略して伝えることが可能だ。
しかしブログでは、その雰囲気は全く伝わらない、《服がおしゃれで、清潔感があって、しっかりとした自分の意見が言えてて…》のようなことをいちいち書かなければ読者には伝わらないのである。
これを書いていて思ったが、「話していて気が楽な友人」という立ち位置は、
どれだけ自分のコンテクストを理解してもらっているかの度合いが重要なキーになるのではないか。
自分のコンテクストへの理解度が高ければ高いほど、友人と話す時に言葉、説明を省略することができ、楽なのかもしれない。それが「気が楽」につながっている。
話が脱線したが、
以上のことを踏まえた上で今思っていることを書きたいと思う。
あきためんどくせえーー」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーもじかくのめんどくさい文字かくのめんどくじぶんのことかくとかやっぱりむずいなーーー
かんじょうをかくってなかなかむずかしい
ややややややややややややややややややややややややややややややややややややややなわわわわわわわわわわわわわやわなやなやなやなまなやこれだのわななまややこらださな
これだのにめら
らひなやさなふりっくら
フリック入力けっこうはやいとおもう。
ゆなゆなやなみんなどれくらいはやいんだろうな
らららゆなななかならはなはら
ぬなやや
うーんんららわらはらわややはらはわや
やなやわやたままままままままままややなのゆなやなやめんどわやわわややや「なやややややややややややややわわわわわわわわわわわわわわわわわわわやややまややややなななはらささかかあまなはららふかまやなかたゆしだらしややしまやきまひたややななややなやななななななややややややななにしよーりるこやなやはなやははらりかななぬかなや